台湾の歴史 台湾と大陸の関係はどうなっているのでしか?この間の総統選挙以来ごたごたしているようですがね?でも、一応は台湾側の独立宣言はしないなど、明確な解答?を就任演説で打ち出したようですね。 まあ、大陸の政府の圧力に屈したのか?どういったわけですかね?まあ、独立するというのも変だし・・・ついでにちょっと、台湾の歴史でも調べてみますか 台湾の歴史の始まりは・・・ちょっとよくわかりませんね。発見というなら、記録を残した漢民族に発見は帰せられるでしょうね。蓬莱の島ですから、支配などという意味で、確実なのは7世紀初頭の隋により台湾の武装偵察が行われているようです。役所なんか置くようになるのは元末の1360年、澎湖島に巡検司を置いて福建省同安県に組み込まれたそうです。しかし、あまり強い支配は行われなかったのでしょう、そのためかオランダによって1622年に澎湖島、つづく24年に南部台湾を占領しています。これに対しスペインは1626年に北部のキールン、淡水を占拠しますが、1642年にオランダ軍の攻撃により事実上全島はオランダの支配下に入ったようです。 ところが、明が滅びると1661年に明の遺臣である鄭成功によりオランダ人を台湾からおいだして、清に対抗し明を復興するための拠点作りを行っていますね。抗清復明というやつです。 この鄭成功も面白い人物ですね、鄭成功1624年に明の鄭芝龍を父とし、母は日本人で長崎の平戸で生まれた人ですね。7歳で福建省にいた父のもとへ単身赴き、後に南京の大学で学び、1645年に福建に帰り、父芝龍などの明の残党に擁立された唐王隆武帝から、朱という、皇帝と同じ姓を許され、ついでにこのときに名も成功に改めたという人物ですね。朱成功とか鄭成功なんていうわけです。「国姓爺」例のこくせんやですね。学校で近松門左衛門の国姓爺合戦のモデルとなるなんて習ったかな?さすがに自らは皇帝と同姓であることを憚って朱成功と称することはなかったようです。 この時代以降、大陸を追われた明の残党が台湾に集まり、鄭成功が大陸から締め出され、台湾を根拠地にすることを決する1661年には2万を超えたと伝えられています。そしてこの年鄭成功は2万5千の軍勢を率いオランダ支配下の台湾を占領したが、翌1662年陰暦の5月8日台湾で病死しています。この後1683年まで鄭成功の後継者が台湾を経営しつづけますが遂に福建省に隷属させられてしまい、清国支配の拠点として台南に台湾府がおかれます。この後、反乱軍の根拠地ですから渡航制限がかけられますが、18世紀後半から輸出用の農産物需要の増加などの要因で開拓が急速に進みます。そして、アヘン戦争の結果1858年に結ばれた天津条約の取り決めにより、台南と淡水港が開港場となり富の蓄積が顕著となります。そして日本も1874年台湾に出兵ます。まあ結構いいかげんな出兵ですね。事の起こりは1871年八重山島民の漂着の際54人が殺され、1873年には岡山の船が漂着し、その際4人が略奪を受けたことを受け、日本政府は清国へ抗議を申し入れますが、清国外務当局は台湾原住民は「化外」であり、清国の統治の外にあると述べて責任を回避したようです。しかし、この頃日本国内では明治6年の政変のさなかで国内は政治的な危機に見舞われていました。そこで、国内の不満を外に向けるため、化外の地なら平定しよう!というので台湾征討に踏み切ることにし、1874年4月参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官とし、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し出兵準備に入りますが、英米の駐日公使が出兵反対の意向を示し、これに基づき政府は中止を決めますが、西郷は兵3000を率いて独断で出兵を強行しています。統帥権はどうなっていたのでしょうか?結果は台湾を制圧、とはいってもマラリアで大量の被害を出していますね。そこで日清両国互換条款が結ばれ、一応の決着がつきます。しかし、その後の日清戦争にて台湾は日本に割譲、台湾民主国建国運動、西来庵事件、台湾議会設置運動、霧社事件などの抗日運動が続きます。そして1945年、日本敗戦により中国の領有するものとなりますが国共内戦の激化により1949年中華人民共和国の成立により蒋介石政権は台湾への撤退して現在にいたるというわけですね。 台湾問題って複雑ですね。でも台湾って蓬莱の島なんですかね?食べ物に困るようなことがなさそうですから逃げ場所としては良いのかも知れません。守るのには周りが海ですから良いですが、あそこから大陸に討って出るとなると結構大変ですね。いずれにせよ、両国とも1つの中国を目指しているわけですから、そのうち情勢が変われば、歩みよりも見られるかもしれませんね。 |