情報過多って恐ろしい?
 情報化が進むとき、人はどのような価値観を持つか?なんて不思議なことを考えてしまいました。情報過多が叫ばれて、ずいぶんの年月が経つような気がします。
 情報が多くなったことで行われていることは?当然自分の興味のあることでのフィルターをかけるという行為ですね。情報化社会というのは、このようにして入ってくる情報を峻別する装置が必要ということでしょう。
 まあ、かつて情報量の少なさから、短波であるとか長距離通信の手段を利用してまで、あの聞き取りにくい電波に聞き耳を立てた時代の方が良かったのかもしれません。だって、フィルター以前に、自分の知らない範囲を懸命に拾い上げる努力をしていましたからね。
 今や、その流れは過去のものとなり、自分のお気に入りの世界の情報で満足できるだけのものになっているのでは?なんて気がします。まあ、分野によっては今も情報が少なく、目を血眼にして探さないといけない分野も多々あるとは思いますがね。
 しかし、歴史的に、文化の爛熟期には同じような社会現象が起こっているような気がします。それは、無関心というやつなのかもしれません。まあ、見かけの上では多くの人の関心を引く事柄がありますが、それが、ある特定の仕掛け人の手になることが多いような気がします。
 どうして、社会がこの方向に進むのだろう?と疑問に思う状態でも、一部の先導者の言質が体制を、そして世論を生み出していくような気がします。
 社会の安定は、多くの情報の確実な伝達を生み出し、それによって、多くの情報の中からのエッセンスを搾り出すアナリストの存在を許すようになります。
 そしてこのアナリストの台頭が、個々の人間の価値判断の領域にたどり着くまでに至ると、仲間同士では知識の均一化が行われ、発展は停止します。まあ、場合によれば、そこにピーター・パンのネバーランドが現出されるということでしょう。
 未来を築く若者が、旧来の枠の中で、新規さを求めるとなると、幼児に戻るしかないのかもしれませんね。人の気を引くために、珍奇な行動を取るとか、現実の持つ制限を無視して、仮想の領域での自己PRですかね。ですから、成功も先の見込みも無いようなバスジャックをしてみたくなるなんていうのもそういったものの延長なの化もしれません。
 そうだ、もう一つ要員があるかもしれませんね。情報というやつには生活に必須なもの、たとえば、ここにえさがあるぞなんて蜜蜂のダンスがありますが、こういったものしかない貧しい社会から、富の蓄積が行われ、その富を記録し活用情報を構築し・・・といったように社会が富むにつれて情報が増え、生活に直接必要としない情報も、有り余る富によって、文化的情報として蓄えられていきます。
 まあ、飢えの恐怖を克服し、その上位の概念としての文化、まあ、非生産的なものですかね。どうも、この部分が問題なのかもしれません。純粋に食べるための仕事というのが軽視され、文化的なお仕事とされるものが好まれるというのが、豊かであって情報過多の時代に現れてくるようですね。
 そういえば、近頃の若い者は・・・という書き出しで表せそうな連中って、きわめて限られた範囲の情報で満足しているのではないかという気がします。まあ、イソップのアリとキリギリスの情報版ですかね。
 まあ、こんな感じですか・・・
 時は今、情報化社会の時代に、アリとキリギリスがいました。アリは毎日、分野を問わない幅広い情報収集活動をしていました。そして、その情報を整理分類、そして評価するために、たくさん勉強をしていました。そして、しごと時間には精一杯働いて、時間内にこなし、余暇にはその仕事で手に入れたもので、充実した暮らしをしていました。キリギリスは毎日、食べるには困らないので、楽しみのために、歌の情報やお芝居の情報などを、同じ楽しみを持っているものたちと情報を交換して楽しんでいました。もちろんアリとも情報の上では重なりはあったんですが、キリギリスは、自分は高尚な文化的な事柄だけに携わっているので、実生活に深くかかわる部分の情報なんかをいじっているアリを低俗なものとして馬鹿にしていました。
 そして、ある日、生活に冬の時代が訪れました。そう、大不況、みんな食べるために働かなければならなくなり、文化の火が消えようとしています。食べるための情報がすべてのものに必要とされてきました、キリギリスの持っていた情報は?お友達と交換していた重要と思われた情報は?飢えと共に価値を失ってしまいました。
 仕方なく、キリギリスはアリのところへ行って、生きるための情報をもらおうとしました。
 「アリさんアリさん、生きるための情報を分けてくれませんか?」キリギリスはいいました。アリさんは気前良く、たくさんの生きるための情報をキリギリスに分けてやりました。でも、この情報はキリギリスのためにはあまり役に立ちませんでした。たくさんの情報を整理し、価値を把握し、それを食べ物に換えるための基礎的な知識の蓄積が無かったのでキリギリスは、たくさんの食べもに繋がる情報の中で、飢え死してしまいました。
 まあ、情報化社会の盲点というのは、専門馬鹿を作りかねないということですかね。まあ、生活の糧となりうる情報なら、その活用を含めて専門馬鹿でも良いですが、生活に必須でない、まして食べ物に結びつかない情報なんかだけの専門馬鹿は欲しくないですね。
 でも、これってちょっと面白いテーマですね。情報過多と社会的な富の関係、元禄時代にもこういったものってあったのかな?河原乞食が芸能人として尊敬を受けるようになった時代ですから、何かあるのかもしれませんね。この富める地代の反動がどうかきませんように。まあ、祈るだけでなく、本物の冬の時代に役立つ知識も研究しないとね!